賃貸の部屋を出るとき、管理会社から「退去の立ち会いの日を決めてください」と連絡が来ます。
なんとなく「行かなきゃいけないもの」だと思っていませんか。そして、その場で見せられた書類に、よく分からないままサインしていませんか。
私は本業でクロス(壁紙)と塗装の仕事をしていて、退去したあとの部屋を張り替える仕事をよく受けています。原状回復の現場で、実際に手を動かしている側の人間です。
その立場から、はっきり言います。退去の立ち会いには、私は賛成できません。
立ち会いは法律で決まった義務ではなく、断ることができます。そして一番大事なのは、その場で金額の書類にサインしないことです。この記事では、その理由と、立ち会わずに損をしないための手順を書きます。
先に結論|退去で損しないための5つ
- 立ち会いは義務ではない。断れる(契約書に書いてあっても、その場でサインする義務まではない)
- 退去の日に、自分で部屋じゅうの写真を撮る(自分がつけた傷も含めて全部)
- 請求は、後日「書面」で受け取る
- 届いた請求書を、ガイドラインと自分の過失に照らし合わせる
- おかしければ「ガイドラインに沿って作り直してください」とメールする(電話ではなく、文字に残す)
原状回復の「誰が何を払うか」の線引きは、前の記事で詳しく書きました。この記事は、その線引きを使って、実際にどう身を守るかの話です。
▶️ 退去時のクロス代、全部払う必要はありません|張り替えている職人が教える原状回復の線引き
【職人の現場】立ち会いの場で、何が起きているか
来るのは、管理会社の人とは限らない
立ち会いに来るのは、管理会社の社員だと思っている人が多いと思います。でも実際は、管理会社から委託された人が来ることがよくあります。
その人が部屋を回りながら、「ここは修理しないといけないですね」「ここも張り替えですね」と、あちこちを指していきます。中には、借りた人の過失ではないものまで含まれています。
その場でサインを求められる
そして最後に、修理費の書類にその場でサインを求められます。金額が大きいこともあります。
向こうは、その場でサインをもらいたいのです。サインがあれば「借りた人も納得した」ことになるので、あとで揉めにくくなるからです。
立ち会いの場は、言ってみれば記録に残らない密室です。「ここは直してもらわないと困るんですよ」と押されれば、本来なら数万円で済む修繕が、何十万円という請求になっていることもあります。その金額に、その場でサインさせようとするわけです。
難しい言葉を出されると、言い返せない
「善管注意義務が」「特約で」「原状回復の範囲として」──。こういう難しい言葉や法律の話をちらつかされると、普通の人は言い返せません。「そういうものなのか」と思って、サインしてしまいます。
はっきり言えば、知らないことにつけ込まれているのです。
「今サインしてもらえれば、敷金の範囲内に収めますよ」
立ち会いの場でよくあるのが、この言い方です。
大家さんや管理会社は、敷金をできるだけ返したくない。だから、あれもこれもと修理を追加、追加して、多めの金額を出してきます。そのうえで、
「今サインしていただけるなら、敷金の範囲内に収めますよ」
と持ちかけてくるのです。
言われた側は、「追加で払わなくていいなら」とホッとしてサインしてしまいます。でも、元の金額が多めに盛られているのですから、本当は敷金の一部、場合によってはほとんどが返ってくるはずだったかもしれません。「敷金で収まる」は、得ではありません。
一人で立ち会うのは、特に気をつけてほしい
一人暮らしの人、とくに女性が一人で立ち会う場合は注意してください。強い口調で押されたり、威圧的な態度を取られたりして、サインするまで帰りにくい空気を作られることもあると聞きます。
そんなリスクを負ってまで、立ち会いに行く必要はありません。
大家さん・管理会社は「とりあえず色々言ってくる」
大家さんや管理会社からすれば、修理費はなるべく借りた人に払ってほしいのが本音です。だから、払わなくていいものも含めて、とりあえず色々言ってきます。
悪意があるかどうかは別として、最初に出てくる金額は「言ってみた金額」くらいに思っておいた方がいいです。
立ち会いは義務ではありません
退去の立ち会いについて、借りた人に参加を義務づける法律はありません。断ることができます。
契約書に「退去時は立ち会うこと」と書いてある場合もあります。ただ、それ自体に、立ち会いを強制する力はないとされています。鍵を返して、退去の届けを出せば、退去そのものは完了します。
そして、仮に立ち会ったとしても、その場で金額の書類にサインする義務はありません。
ガイドラインは立ち会いを勧めている。でも「その場で金額に合意」とは書いていない
正直に書いておきます。国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」は、入居時と退去時にチェックリストを作って、貸す側と借りる側が立ち会って確認することを勧めています。
ただ、ガイドラインが示している手順をよく見ると、流れはこうなっています。
- 退去時に、部屋の状態を確認する
- 借りた人の負担がどこまでかを検討する(範囲・面積・経過年数)
- 見積もりを出して、借りた人に連絡する
- 見積もりの金額に合意する
- 精算(請求書の送付と確認)
つまり、金額に合意するのは、見積もりが出たあとです。部屋を見たその場で、金額の書類にサインするという流れにはなっていません。
立ち会いの目的は「部屋の状態を一緒に確認すること」であって、「その場で払う金額を決めること」ではないのです。
立ち会いを断るなら、伝え方はシンプルでいい
断るときは、メールで伝えるのがおすすめです。電話だと言いくるめられやすく、記録も残りません。
いちばん短く言うなら、「退去には立ち会いません。請求があれば書面でください」。これだけでも十分です。
もう少していねいに書くなら、たとえばこんな感じです。
○○マンション○号室の○○です。
○月○日に退去いたします。
退去時の立ち会いは、都合により参加できません。
室内の状態は、退去日に私のほうで写真を撮影して保管しております。
原状回復費用につきましては、国土交通省のガイドラインに沿った明細(箇所・面積・経過年数・負担割合)を、書面またはメールでお送りください。
鍵の返却方法についてもご指示ください。
ポイントは2つです。
- 「写真を撮ってある」と先に伝えておく。これだけで、根拠のない請求はしにくくなります
- 「明細で送ってください」と最初に頼んでおく。「一式○○円」ではなく、どこを何㎡、何年分差し引いたかを出してもらいます
鍵の返し方(郵送か、事務所に持っていくか)は物件によって違うので、忘れずに確認してください。

退去の日に、自分で写真を撮る|撮っておくべき場所
立ち会いを断るなら、写真は必ずセットです。立ち会わない場合、部屋の状態の記録が大家さん側の写真だけになってしまうからです。
荷物を全部出して、掃除が終わった状態で撮ります。多すぎて困ることはありません。全部片付いたら消せばいいだけです。
📄 退去チェックリスト(PDF・A4で2枚・無料)
1枚目=退去の日の写真チェックリスト(部屋ごと・自分の傷のメモ欄つき)/2枚目=請求書が届いたときの照らし合わせリストと、メールの文例。印刷しても、スマホで見ながらでも使えます。
部屋全体と、壁の各面
まず、部屋全体を入口から撮ります。そのあと、壁を1面ずつ、正面から撮ってください。天井も忘れずに。
クロスは面ごとに張り替えることが多いので、「この面には何もなかった」と言える写真があると強いです。
床(傷とへこみ)
フローリングやクッションフロアの傷・へこみは、近くから撮ってください。家具を置いていた跡のへこみは、住んでいれば普通にできるもので、基本的に借りた人の負担ではありません。それでも、どのくらいのへこみだったかは記録しておきます。
水回りと鏡
キッチン・お風呂・洗面台・トイレ。それに洗面所の鏡。水回りは汚れが出やすく、「クリーニングでは落ちない」と言われやすい場所です。掃除したあとの状態を撮っておきましょう。
自分がつけてしまった傷も、撮っておく
ここが大事です。クロスの大きな傷や、開けてしまった穴など、自分の過失も一応撮っておいてください。
隠すためではありません。「傷はこの大きさ、この範囲だった」と示すためです。自分の過失の分は払うのが筋ですが、払うのは「その傷の分」だけです。写真がないと、小さな傷が「壁一面の張り替え」に化けても反論できません。
なかったはずの傷を、増やされないために
残念ながら、退去後に元からなかった傷まで請求される、悪質なケースもあります。自分が出たあとの部屋で何があったかは、借りた人には分かりません。
だからこそ、退去した時点の写真が自分を守ってくれます。スマホの写真には撮影日時が残るので、そのまま保管しておけば十分です。

請求書が届いたら|ガイドラインと照らし合わせる
立ち会いを断っても、後日、管理会社や大家さんから請求書(精算書)が届きます。届いたら、すぐに払わずに次の点を確認してください。
| 確認すること | 見るポイント |
|---|---|
| その傷は、自分の過失か | 日焼け・冷蔵庫の裏の黒ずみ・画びょう穴・家具のへこみは、基本的に大家さん負担 |
| 範囲(何㎡か) | クロスは原則㎡単位。広くても傷のある1面まで(タバコで部屋全体が汚れた場合を除く) |
| 経過年数 | クロスは6年で価値1円。住んだ年数の分は差し引かれているか |
| 負担割合 | 大家さんと借りた人で、何%ずつになっているか |
| 「一式」になっていないか | 「原状回復工事一式 ○○円」だけでは、何に払うのか分からない |
ガイドラインには、精算の明細書の見本(別表4)も載っています。そこには箇所ごとに「単価・数量・経過年数・大家さんの負担割合・借りた人の負担割合」を書く欄があります。つまり、明細はこのくらい細かく出すのが本来の形です。
そのうえで、自分の写真と、自分の過失の分を照らし合わせて、払うかどうかを判断します。
おかしな請求なら「ガイドラインに沿って作り直してください」とメールする
明らかにおかしな請求なら、作り直してもらいましょう。ここでも、電話ではなくメールです。言った・言わないにならないよう、文字に残します。
○○マンション○号室の○○です。
原状回復費用のご請求書を拝見しました。
以下の点について、国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」に沿っていないように思われます。
・○○(例:冷蔵庫裏のクロスの黒ずみ)は、通常の使用による損耗と考えます
・○○(例:クロスの張り替え範囲)が、傷のある面を超えています
・経過年数(入居○年)が考慮されていません
ガイドラインおよび契約書に沿って、明細を作り直していただけますでしょうか。
退去時の写真は保管しておりますので、必要であればお送りします。
【職人の本音】ちゃんと言えば、作り直してくることが多い
これは実際にある話です。ちゃんと意見を言ってくる人には、管理会社は請求を作り直してきます。
理由は単純で、面倒だからです。ガイドラインを持ち出してくる人とやり取りを続けると、時間も手間もかかります。何万円かのために揉め続けるのは、向こうにとっても割に合わないのです。だから、契約書やガイドラインに沿って作り直してきます。
逆に言えば、何も言わずにサインした人、何も言わずに払った人は、そのままです。
【正直に書きます】自分の過失の分は払う
ここまで「払わなくていい」話を書いてきましたが、自分がつけた傷は、自分で払うのが筋です。
- 家具をぶつけて開けたクロスの穴
- 落書き
- タバコのヤニ・臭い
- ペットのひっかき傷
- 結露を放置して広げたカビ
こういうものは、ガイドラインでも借りた人の負担です(ただし、クロスの経過年数の分は差し引かれます)。
この記事で言いたいのは、「何も払うな」ではなく「払う分だけ払おう」ということです。そのために、写真を撮り、明細をもらい、照らし合わせるのです。
立ち会いを断ることのデメリットも
立ち会いを断ると、その場で話が終わらないので、メールのやり取りが増えることがあります。手間はかかりますが、そのやり取りが文字の記録として残ります。
どうしても立ち会うことになった場合は、「金額は、明細をもらってから確認します」と言って、その場ではサインしない。これだけ守れば大丈夫です。
話がまとまらないときは
- 2020年4月からは民法にも、普通に使ってできた傷みや経年変化は、借りた人が直す義務を負わないと書かれています(民法621条)
- 敷金は、未払いの家賃などを差し引いた残りを返さなければならないと、これも民法に書かれています(民法622条の2)
- それでも納得できないときは、消費生活センター(消費者ホットライン「188」)に相談できます。そのときも、写真とメールのやり取りがそのまま役に立ちます
よくある質問
Q. 契約書に「立ち会いをする」と書いてあります。断れませんか?
A. 契約書に書いてあっても、立ち会いを強制する力はないとされています。鍵の返却と退去の届けで、退去は完了します。もし立ち会うことにした場合も、その場で金額の書類にサインする義務はありません。「金額は明細をもらってから確認します」と伝えて、持ち帰ってください。
Q. 立ち会いのとき、もうサインしてしまいました。
A. サインした書類に何が書いてあったか(金額が書いてあったか、「状態を確認した」だけか)をまず確認してください。金額に納得していないなら、早めにメールで「ガイドラインに沿っていない点がある」と伝え、消費生活センター(188)にも相談してみてください。
Q. 退去日に写真を撮り忘れました。
A. 入居時の写真があれば、それも使えます。どちらもない場合でも、請求書の明細を出してもらい、ガイドラインと照らし合わせることはできます。「一式」の請求には、内訳を求めてください。
Q. 写真はどのくらい撮ればいいですか?
A. 多すぎて困ることはありません。部屋全体、壁の各面、天井、床、水回り、鏡、そして自分がつけた傷。敷金の精算が全部終わったら消せばいいだけです。
まとめ|その場でサインしない。文字に残す
退去の立ち会いで損をしないためのポイントは、これだけです。
- 立ち会いは義務ではない。断れる
- 断るなら、退去の日に部屋じゅうの写真を撮る(自分の過失も含めて)
- その場で金額にサインしない。ガイドラインの流れでも、金額の合意は見積もりのあと
- 請求書はガイドラインと自分の過失に照らし合わせる
- おかしければ「ガイドラインに沿って作り直してください」とメールする
退去の日の写真と、請求書の照らし合わせは、退去チェックリスト(PDF)を使うと漏れがありません。
難しい言葉を並べられても、慌てなくて大丈夫です。払うのは、自分がつけた傷の分だけ。そのことを、写真とメールで示せばいいのです。
参考:国土交通省住宅局「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」平成23年8月(p.3 物件の確認の徹底/p.16 原状回復の手順/p.28 別表4 精算明細書の様式例)、民法621条・622条の2